山の元(はじめ)自然学校

第一話 林田弘治さんとの出会い

石巻で半年のボランティア活動を終えた私は、地元の大牟田へ帰り、元職場であったガソリンスタンドで働いていた。

その職場は19の頃から働いていて、28の頃から風来坊になった私をいつも心良く受け入れてくれて、顔馴染みの客も多かった。

「今度はどこさいっとったとね?」とよく聞かれ、旅話をいつも得意げに話していた。

その顧客の一人である糸永さんという奥様との何気ない会話で「今後どげんしたいと?何かやりたいことでもあると?」と聞かれ、

ふと「いずれは山で自給自足みたいなことばやってみたかですねぇ〜」と答えると、

「それなら面白い人がおるよ!今度その人に会いに行ってみる?」と言われたので

即答で「はい!お願いします」と答えた。

後日、『どんな面白い人なんやろう…』と胸に期待を膨らませ連れてかれた場所が、熊本県玉名郡南関町の山奥であった。

その人は棚田の田んぼの畦で背中を丸め、かがんで何やら作業をしていた。

「林田さ〜ん!」と糸永さんは声を上げて歩み寄って行ったので、私も後に続いた。

「お〜!きたかー」と振り向き立ち上がる。

痩せ型で、年期の入ったクボタの帽子を被り、ややブカブカに見える白の長靴を履き、上下ベージュ色の作業服を着た年配の男性だった。

私は自分で刈っているモヒカンの頭を軽く下げ、自己紹介を済ませるや否や、おやっさんは何事もなく環境問題について語り始めた。

淡々と語り続け、ふと「それ知っとるか?」聞かれたので

どんな内容までは憶えてないが、適当に知ったかで話をした。

そして黙々と聞いていたおやっさんはこう言った。

「あんたの言っとるこつ(こと)は、しぇしぇのキンタマのごたこつば(ようなことを)言いよっとばい!しぇしぇちや(とは)知っとるか?こげんこーまか(こんなに小さい)虫のおっとたい」と

右手の人差し指と親指で1cmぐらいの隙間を作り、

「そん(その)しぇしぇのキンタマたい!だけんこーまかったい(小さいのだよ)言っとるこつが!我がごつ(自分のこと)しか考えきらんけんそげなこつ(そのようなこと)しか出てこんとたい!かわいそかねぇ〜」

と射貫かれ、ぐぅの根も出ずだった。

「そげんじゃなかろうが!(そうではないだろう)もっと人間は生物の多様性を理解し共存せなならん。アンタだけじゃなかつばい。今の大人はよぅ知らん人が多かったい。そやけど今からの子供達にはちゃんと教えてやらないかん」

隣にいた糸永さんは、その様子をニコやかに聞いていた。

それがおやっさん(林田弘治)との初めての出会いだった…。

おやっさんは 山の元 自然学校を設立し、あちこちの小中学校に出向き、子供達に自然の尊さや機能、自然の生き物たちの役割などを講義し、自分の山に招いて実習として子供達と一緒に自然と触れ合い、無農薬の米づくりなど、種を植えるところから教えたり、昔ながらの百姓学をモットーに伝え広めている人だった。

棚田を見下ろすように建てられた山小屋には、実習の様子を撮った写真が沢山貼られてあった。

2007 年には、環境大臣賞も受賞されていて賞状も飾られていた。

『このおっちゃん口悪いけど、やってることすごいな…』

「おらぁ去年癌の手術ばして、胃と脾臓と胆嚢ば取ったったい。だけん腹が減らん、そばってん食べな動かれんけん、無理して食べよっとばってんきつかったいこれが…食べるとがきつか。そばってんこれもよか資料たい俺が」と言って笑っていた。

その日から私は仕事の合間を縫っては、自然学校へと通うようになっていった。